2011.02.09 Wednesday 01:03
 おにぎりです。二月になりましたね\(^o^)/

 今回は、私が大根地区の地名を研究していて気付いた特徴である「大根には“塩”の付く地名が多い」についてお送りいたします。

 まず大根地区にある塩の付く地名を挙げると、北矢名(きたやな)に塩ノ宮(しおのみや)、南矢名(みなみやな)と北矢名にまたがった塩河内(しおこうち)、そして鶴巻には塩久保(しおくぼ)と塩貝(しおがい)という地名があります。

塩貝橋
新川に架かる塩貝橋

 具体的な場所は、塩ノ宮が東名高速道路沿い、塩河内は東海大学前駅の北側で小田急線にクロスする川の名前及びその流域の地名、塩久保は鶴巻温泉駅を西に進んだ北矢名との境、塩貝は鶴巻温泉駅のすぐ近くで、上の写真の通り新川(しんかわ)沿いの地域です。


 この「塩」の意味ですが、どうにも一筋縄ではいかないようです。
まず地名辞典をひも解くと「“シホ”の当て字で“しぼんだ地形の場所”の意味」とあります。
実際にこのような地名は山の近くにあることが多く、栃木県の塩原温泉の塩原(しおばら)も“しぼんだ形の原っぱ”の意味とされています。

 しかし、この他にも「秦野地方の地名探訪」という書籍には「塩はこの辺りの塩分及びカルシウム分を含んだ湧き水に由来する」とあるのです。

実際に大根地区が誇る温泉郷・鶴巻温泉は、もともと飲用目的で掘った井戸が塩辛くその目的に使えないがために浴用としたことにはじまるといわれています。
また、この塩辛い湧き水のせいで、かつて落幡村(おちはたむら:現在の鶴巻)ではイネが枯れるなどの被害も出ていました。

 そして、どちらも説得力がある「塩」の地名の意味についてですが、
私はしぼんだ形に由来するのは「川と川が合流する地点のしぼんだ地形」を意味する塩河内のみで、
それ以外の塩ノ宮・塩久保・塩貝は鶴巻温泉の泉質のように塩辛い湧き水に由来し、それぞれ「塩辛い湧き水のある原野(ミヤは原野の意味)」、「塩辛い湧き水のある窪地」、「塩辛い湧き水があるところ」の意味と推測しています。

塩河内川
塩河内川(蛇久保川とも)

 ちなみに、北矢名の塩ノ宮あたりでもかつて泉脈が発見されたとの情報があるそうです。…でも無断で掘ったらいけないですよ?

 今回も御高覧ありがとうございました( ´ω`)次回のおおねの語り部は2月23日です。

バックナンバー
第六回『南矢名の宿場町・宿矢名』
第五回『北矢名にあった幻の寺院・長昌院に迫る!』
第四回『武将・真田与一と真田城』
第三回『谷戸の街・真田』
第二回『南矢名の景勝地・烏啼』
第一回『一本橋の堰と烏啼の堰』
新コーナー始まります!
| おおねの語り部 | comments(1) | trackbacks(0) |
2011.01.26 Wednesday 14:24
おはこんばんちは!おにぎりです\(^o^)/。

第6回目を迎えた歴史コラム「おおねの語り部」、今回は南矢名(みなみやな)の南東にある街・宿矢名(しゅくやな)についてお送りしたいと思います。

宿矢名は古くは矢名宿(やなじゅく)と呼ばれ、宿の字が示すとおり平塚宿(ひらつかじゅく)と曽屋(そや)という二つの街を結ぶ曽屋道(そやみち)という街道の上に発達した宿場町で、平塚宿は現在の平塚市中心部、曽屋は秦野の中心地にあたります。

また、当時曽屋は十日市場(とおかいちば)という別名でも呼ばれていました。

宿矢名の街並み
宿矢名の街並み

また、宿矢名は宿場町としてだけではなく、門前町としても栄えました。

現在も宿矢名の一番奥には“お薬師さま”こと東光寺薬師堂(とうこうじやくしどう)が宿矢名の街を見守るように佇んでいます。
この大きな仁王門を誇る薬師堂は安永3年(1774年)に建立されたと伝えられ、仁王門は秦野市内でも二つしかないものの一つです。

東光寺薬師堂
東光寺薬師堂

そして、歴史の古い街ならではの伝承も伝わっています。

それは宿矢名の東端にかかる八声橋(やごえばし)という橋にまつわるものです。

この橋は源 実朝(みなもと の さねとも)が殺害された後、彼の首を持った三浦氏の家臣・武 常晴(たけ つねはる)が波多野(はたの)の田原(たはら:秦野市西田原・東田原)へ向かう際に通り、このあたりで夜が明け、鶏が鳴いたのでこの橋は以後八声橋と呼ばれるようになったといわれています。

八声橋
八声橋

そして現在の宿矢名は東海大学湘南校舎に近いこともあり、学生向けのアパートが立ち並んでいます。

またコンビニエンスストアもあることから生活には非常に便利なエリアとなっており、言うならば“曽屋道を行き交う旅人の宿場町“であった宿矢名は“全国から集まった学生たちの宿場町”へと変貌を遂げたのでしょう。

今回も御高覧いただきありがとうございました(・∀・)。次回は2月9日を予定しています。

バックナンバー
第五回『北矢名にあった幻の寺院・長昌院に迫る!』
第四回『武将・真田与一と真田城』
第三回『谷戸の街・真田』
第二回『南矢名の景勝地・烏啼』
第一回『一本橋の堰と烏啼の堰』
新コーナー始まります!
| おおねの語り部 | comments(0) | trackbacks(0) |
2011.01.12 Wednesday 01:10
どうも!おにぎりです\(^o^)/。

今回で第5回目を迎えた歴史コラム「おおねの語り部」、今回は北矢名(きたやな)地区にかつてあった“長昌院(ちょうしょういん)”というお寺についてお送りしたいと思います。

北矢名の東名高速道路を超えたところにある蛇久保(じゃくぼ)と呼ばれる集落の奥、そしておおね台団地の東側にある谷戸の段々畑になっている一角に長昌院はありました。

蛇久保の段々畑
蛇久保の段々畑

山号を竜峯山(りゅうぶざん)といい、本尊は華厳釈迦(けごんしゃか)でした。
江戸期に北矢名村の村民である今井彦右衛門(いまい ひこえもん)という人物によってなされたと伝えられています。

もともとは彼が個人的に建てた“松柏山伝宗院(しょうはくざん でんそういん)”というお堂だったようですが、後の慶安年間(1648‐1651年)に大住郡善波村(おおすみのこおり ぜんばむら:現在の伊勢原市善波)の鹿窪(ししくぼ:同市善波の獅子久保)にあった廃寺から山号と本尊を譲り受け、同じく善波にある勝興寺(しょうこうじ)というお寺の末寺として開山(お寺の創建)しました。

現在の長昌院跡
長昌院跡

しかし、その後天保6年(1835年)になると住職のいない無住の寺院となってしまい、明治に入って間もない頃に遂に廃寺となってしまいました。
現在は多宝塔のみが残っており、また近年には墓地としても整備されたようです。

長昌院の多宝塔
長昌院跡の多宝塔

ちなみに地名にも長昌院の名残は見受けられ、同地近くの段々畑あたりには“寺ノ前(てらのまえ)”や“寺ノ上(てらのうえ)”という字が現在でも残っており、長昌院から西側にある現在のおおね台団地の北側にあたる丘はかつて“坊主山(ぼうずやま)”と呼ばれていました。
長昌院の管理下に置かれた“寺領の山”という意味と思われます。

近年都市化の波が激しい大根地区ですが、ここのように往年の姿を残す場所もまだまだあるようです。このような風景がいつまでも大事にされていくことを願ってやみません。

…以上おにぎりでした。次回は今月26日を予定しています( ^ω^)

バックナンバー
第四回『武将・真田与一と真田城』
第三回『谷戸の街・真田』
第二回『南矢名の景勝地・烏啼』
第一回『一本橋の堰と烏啼の堰』
新コーナー始まります!
| おおねの語り部 | comments(0) | trackbacks(0) |
2010.12.29 Wednesday 10:27
みなさんこんにちは!おにぎりですヾ(*´д`)ノシ

第四回を迎えたおおねの語り部、今回は前回取り上げた真田(さなだ)の谷戸のうちの一つ、与市谷津(よいちやと)の名前の由来となった武将の“真田与一(さなだのよいち)”こと真田義忠(さなだ よしただ)と彼の城である真田城(さなだじょう)についてお送りいたします。

真田義忠
真田義忠(右)

与一は久寿2年(1155年)生まれで岡崎城(おかざきじょう:平塚市岡崎)の城主である岡崎義実(おかざき よしざね)の子であり、後に真田城を居城としたため真田を苗字としました。

かの有名な源 頼朝の挙兵に応じて石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい:治承4年8月23日(1180年9月14日))に参戦し、そこで敵将・長尾新六(ながお しんろく)に討ち取られて25年の生涯を終えました。

その真田与一が居城とした真田城ですが、ここには現在天徳寺(てんとくじ)というお寺が建っています。

天徳寺山門
天徳寺山門

この真田城の西側には前回紹介した複数の谷津(やと)が連なり、南側には王子ノ台(おうじのだい)や上ノ原(うえのはら)と呼ばれる丘があり、そして北側には天然の堀である大根川(おおねがわ)が流れるまさに要塞を築くには最適の土地だったようです。

真田城見取り図
真田城見取り図 - 「中郡勢誌」より

真田城を周辺に残された地名から見てみると、

築地ノ内(ついじのうち)が城の塀の内側、
そして南側の竹ノ内(たけのうち)は城の敷地内を意味する「館ノ内(たてのうち)」の変形、
スクシは城の守護神を祀った場所を表す「守宮神(すくじん)」の変形、
クルワや曽我郭(そがくるわ)は城を取り囲む郭(くるわ)があった場所、
鬼城(おんじろ)は真田城本丸(天徳寺辺り)からみて鬼門の方角の出城、
塚越(つかごし)は物見台として使われたであろう…

などのように地名からもかつての真田城の姿を復元することができ、また地名がこのように歴史的遺構を復元するために役立つことも多いのです。

次回の語り部は新年1月12日の予定です。お題のヒントは「お寺」です(・∀・)。

参考文献
神奈川県中地方事務所 編『中郡勢誌』(神奈川県中地方事務所 1953年)

バックナンバー
第三回『谷戸の街・真田』
第二回『南矢名の景勝地・烏啼』
第一回『一本橋の堰と烏啼の堰』
新コーナー始まります!
| おおねの語り部 | comments(2) | trackbacks(0) |
2010.12.15 Wednesday 01:11
みなさんこんにちは!おにぎりですヾ(*´д`)ノシ

今回でおおねの語り部は第三回、前回取り上げた烏啼に出てきた烏啼谷戸(からすなきやと)の「やと」について詳しく、谷戸の多い真田(さなだ)を例に挙げてお話しいたします( ^ω^)
(真田は現在平塚市で金目(かなめ)地区に分類される地区ですが、かつては大根村の一部でした。)

真田は西側が台地、東側が低地で形成される地域で、谷戸は西側に集中しています。

谷戸とは前回軽くお話しいたしましたが「丘が流水の働きによって削られて出来た谷の地形」で、水が確保しやすいことから近くに集落が出来る例が多く、またその水を利用して谷戸田と呼ばれる田んぼが作られたりしました。

地域によっては「谷津(やつ)」と呼ばれたりもしますが、真田では「谷津」と書いて「やと」と読んでいます。今でも水路として水が流れているところがあるので探してみても面白いかもしれません。

丘の上から見た真田の谷戸
丘の上から見た真田の谷戸

この辺りは谷戸が連なっている地域で地名には「大谷津(おおやと)」、「与市谷津(よいちやと)」、「中ノ谷津(なかのやと)」、「谷津(やと)」の四つがありますが、地元ではひとまとめに「谷津(やと)」と呼んでいます。

大谷津の街並み
大谷津の街並み

谷戸の地形はバス通りの烏啼坂(からすなきざか)と北金目の王子ノ台(おうじのだい)の間にあり、奥からだいたい上の順番に並んでいます。

このうち、与市谷津の「与市」はかつてこの辺りを拠点とした武将の真田義忠(さなだ よしただ)の通称・与一に因んでいると言われています。

かつての面影が残る与市谷津
かつての面影を残す与市谷津


…というわけで次回のおおねの語り部は12月29日、御題は…お楽しみです。おにぎりでした\(^o^)/

バックナンバー
第二回『南矢名の景勝地・烏啼』
第一回『一本橋の堰と烏啼の堰』
新コーナー始まります!
| おおねの語り部 | comments(0) | trackbacks(0) |
2010.12.01 Wednesday 00:02
またもおにぎりです\(^o^)/。歴史コラム「おおねの語り部」前回は「一本橋の堰と烏啼の堰(いっぽんばしのせきとからすなきのせき)」をご紹介しました。

今回は第一回で取り上げた「烏啼(からすなき)」をさらに掘り下げて皆様にご紹介いたしたいと思います(*´д`*)

前回つまり第一回の記事で申し上げたとおり、この地名が一番初めに出てくるのはなんと江戸時代にまで遡ります。
もちろん史料が残っていないだけで200年以上前から使われていると推測されます。

またその歴史を物語るように「三ノ宮の神輿がここを通る頃に夜が明けてカラスが啼いたから「烏啼」と呼ばれるようになった」という説話も人々の間に語り継がれ、バス通りの坂は地元の方を中心に現在も“烏啼坂”と呼ばれています(“三ノ宮”は伊勢原市にある比々多神社です)。

烏啼坂
烏啼坂

では、なぜこの烏啼が”景勝地”なのでしょうか。それはこの地名が「小高く切り立った崖」という意味であることもヒントの一つです。

ここ南矢名出身の詩人である前田夕暮(まえだ ゆうぐれ)が自らの随筆にて烏啼を「田んぼ向こうの岬のようにせり立ったその岡には茅花がほほけていた(≒ススキの穂が乱れ咲いていた)」「その岡にはソバの花が揺れて子供心にも秋は美しくもあり寂しくもあると思った」と書いているのです。

さらにこの烏啼の谷戸(やと:丘のあいだの谷間)その名もズバリ”烏啼谷戸(からすなきやと)”には、綺麗な水が流れドジョウやウナギがいる沢がありました。
また、その水を利用した棚田やタバコ畑もありました。

前田夕暮が愛した烏啼谷戸
前田夕暮が愛した烏啼谷戸

烏啼沢
現在も一部が残る烏啼沢

このように往年の烏啼は“地元の人々から愛された景勝地”だったのです。

この烏啼谷戸は後に開発されて住宅地となり、新たな道や現在の近道商店街もできました。
「留年坂」「そり立つ壁」とあだ名される、まるで壁のような傾斜の急階段やそれにつづく坂道は名づけるならば「新烏啼坂」でしょうか。

南矢名の景勝地・烏啼近道商店街「新烏啼坂」と急階段
近道商店街の「新烏啼坂」と
その終点の急階段

皆さまもこの烏啼を通るとき、かつての面影に思いをはせてみてはいかがでしょうか( ^ω^)

次回の投稿予定日は12月15日(水曜日)です。それではまたお会いいたしましょう(*´д`*)


写真提供:青木繁美 様(前田夕暮が愛した烏啼谷戸)
(注:前田夕暮の表現は現代語訳・編集をしております。)

バックナンバー
第一回『一本橋の堰と烏啼の堰』
新コーナー始まります!
| おおねの語り部 | comments(0) | trackbacks(0) |
2010.11.18 Thursday 00:24
こんにちは。おにぎりです\(^o^)/。この度おおねさんぽにて歴史コラム「おおねの語り部」を担当させていただくことになりました。


記念すべき第一回は大根川(おおねがわ)に存在した堰(せき:水門のようなもの)の「一本橋の堰(いっぽんばしのせき)」と「烏啼の堰(からすなきのせき)」をご紹介したいと思います。

一本橋の堰(いっぽんばしのせき)と烏啼の堰(からすなきのせき)の両方とも大根川(おおねがわ)の水を水田に利用するための堰(水門)であり、いわばこの近辺のかつての生活様式を現在に伝える“史跡”のような存在でもあります。

昭和期の大根川
昭和期の大根川

一本橋の堰は安藤橋(あんどうばし)の少し上流のジリオン前にあった堰で、初代の堰は打ちこんだ杭に板をはめて使う仮設のものでしたが、後に常設化され2008年の安藤橋架け替えにともなって撤去されるまで存在していました。

在りし日の一本橋
在りし日の一本橋

一本橋の堰跡
一本橋の堰跡

この堰が出来た頃には未だ安藤橋がかかっておらず、堰としてだけではなく人が渡る為の“一本橋”としても機能していたことに由来しています。
後に安藤橋が完成すると橋としての機能はそちらに移りますが、その後も一本橋の名でよばれていました。

因みに、上にも出てきた安藤橋の名前は程近い秦野厚生病院がかつて“安藤病院”と呼ばれ、この病院へのアクセスを改善するために、また当時の院長であった安藤氏の援助のもとで架けられた橋であることからその名がつけられました。

一方、烏啼の堰(からすなきのせき)は現在のグルメシティ大根店脇にある堰で、こちらは現役の堰です。
この堰の近辺では鯉が多数見られ、また桜並木もあるため春になればゆるやかな川面に桜が映える“市街地の中のオアシス”ともなっています。

烏啼の堰
烏啼の堰

この「烏啼(からすなき)」の名はこの近辺から近道商店街の急階段あたりまでの南北に細長い地域をさす古い地名で、その名前は江戸時代の天保期(1830-1843年)に作られた地図にも見られます。

地名の由来は「カラ・ス」が「小高い・所」を意味し、「ナキ」が「切り立った場所」を意味する地形語であることから「小高く切り立った場所」という現在でも近道商店街側から見られる地形をもとに付けられた地名であると推測されます。


おおねの語り部の記念すべき第一回は『一本橋の堰と烏啼の堰』をお送りいたしました(*´д`)大根の歴史を皆さんに紹介することが出来て非常に光栄です( ^ω^)

ではまたお会いしましょうヾ(*´д`)ノシ

写真提供:東海大学学園史資料センター(昭和期の大根川、在りし日の一本橋)

関連記事:新コーナー始まります!
| おおねの語り部 | comments(0) | trackbacks(0) |
2010.11.10 Wednesday 00:00
こんばんは☆あきです。
建学祭も終わり、やっとひと息、という方も多いのではないでしょうか。


これから、「おおねの語り部」と題して歴史コラムを連載していきます。

今回はそのコラムニストを紹介します\(^О^)/
 
「おにぎり」こと東海大学文学部歴史学科の宇田川大介(うだがわ だいすけ)さんです!!

 宇田川さんは新旧の地名を調べ、その地名を現在の街に活かすための活動や研究をしています。

 数年前、宇田川さんの地元栃木県をはじめ全国的に「平成の大合併」により多くの地名が消えたり、名称が変わったりしてしまいました。

 そのため、地名を残すため何ができるかを研究することにしたそうです。
 
 「地名を通じてその地域の歴史を大切にし、今の街をその街らしく元気にするための活動を地域の皆さんとやっていきたい!」という熱い思いを宇田川さんは語ってくれました。

 そんな宇田川さんの思いが詰まったのがこのコラムです!!

 秦野市南矢名(みなみやな)、北矢名(きたやな)、下大槻(しもおおづき)、かつて落幡(おちはた)と呼ばれていた鶴巻(つるまき)、平塚市真田(さなだ)は昔、大根村(おおねむら)というひとつの村でした。

 その住み慣れた街のあちこちにも旧地名は存在し、何気ない道・場所の名前にはユニークな由来があります!

 今回はこの旧大根村に焦点を当て、まずは駅前商店街周辺の歴史を中心に紹介していきたいと思います☆

 気になる「おおねの語り部」第一回は11月17日(水)スタートです(´∀人∀`)
お楽しみに♪


 以下、宇田川さんの詳しいプロフィールです★

宇田川 大介(うだがわ だいすけ)
1988年(昭和63年)東京都生まれ栃木県育ち。栃木県立佐野高等学校、東海大学文学部卒業。
 現在、東海大学大学院文学研究科文明研究専攻博士課程前期二年。学部生時代に実家の栃木県に程近い下館(しもだて:茨城県筑西市)の地名が市町村合併によって消滅したことをきっかけに地名の研究を始める。
 のちに地名の成り立ちなどを研究するだけでなく地名の地域資源としての活用などを研究しはじめ現在に至る。

(代表作)

地名を観光資源として活用するための一方策 ―神奈川県秦野市大根地区を例に―
http://www.jafit.jp/thesis/pdf/12_10.pdf

熊本と静岡の広域観光連携における構想私案:水前寺と人吉(共著)
http://www.dobm.u-tokai.ac.jp/kiyou/ronbun2012/03_nitta.pdf
| おおねの語り部 | comments(0) | trackbacks(0) |
<<back|<123456
お知らせ
東海大学駅前商店街マップ
東海大学駅前商店街MAP

おおねさんぽFacebookページ
東海大学前駅ユーザーや東海大学生に知って役立つ情報を発信中!
プロフィール
神奈川県秦野市 小田急線東海大学前駅の「東海大学駅前商店街」が「東海大学生」とタッグを組んで、商店街周辺と東海大学のお得な情報を掲載しています!
カテゴリ
Twitter
Facebook
おおねさんぽ

Facebookページも宣伝
サイト内検索
モバイル
qrcode
カレンダー
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< August 2018 >>
最新の投稿
最新のコメント
アーカイブ
リンク
無料ブログ作成サービス JUGEM